測量技術が未発達で、衛星写真など
存在していなかった時代には、
正確な「地図」を作成することは
とても大変なことでした。
大陸や島の大きさや形や位置が
誤って記されている事も多かったのです。
さらに、当時は「ある」と
信じられていたアトランティスなど
架空の大陸が描かれていたり、
本当はあるはずの大陸が未開拓で
地図上に書かれていませんでした。
今でこそ、当たり前の地図ですが、
当時は、完全な地図は存在しませんでした。
しかし、そんな古地図の中に、
オーパーツ(オーバーテクノロジー)を
呼ばれる奇妙な地図が存在します。
当時の技術では絶対に不可能なはずの正確さ、
古地図の中でも群を抜いて精巧なのが、
ピーリー・レイースの地図です。
そこにはなんと、地図が描かれた時代には
発見後数十年しか経過していなかった
- アメリカ大陸
- 19世紀にその存在が発見された南極
がしっかりと書かれていたのです。
まさに、オーパーツと言える地図なのです。
まずは、ピーリー・レイースとは、
どんな人物だったのか、ご紹介します。
ピーリー・レイースという人物について
ピーリー・レイースは、オスマン帝国の軍人でした。
ちなみに彼の本名は非常に長く、
「アフメット・ムヒッディン・ピーリー」
もしくは
「アフメット・イブニ・エル=ハジュ・メフメット・エル=カラマニ」
で、「レイース」は「提督・船長」
という意味です。
つまりピーリー・レイースは
「ピーリー提督」という意味なんですね。
世界地図だけでなく航海案内書の
著者としても有名な人物でした。
16世紀のオスマン帝国が優れた
海洋知識を保持していたことが
何よりの証拠です。
彼は父の死後、彼と同じくオスマン帝国艦隊の
提督を務めた叔父に引き取られ、
軍人として道を歩み始めました。
実際に幾つかの戦闘にも参加しています。
「レイース」の地位は彼の功績を
たたえて贈られたものです。
ピーリー・レイースに提督の
地位をもたらしたのは、
彼の軍功ではありませんでした。
ピーリー・レイースは、
並外れて詳細な世界地図と
航海案内書を献上します。
オスマン皇帝セリム1世に
その功績を認めてもらえたため、
艦隊の司令官に就いたのです。
そしてそれは、後に彼が
処刑される原因でもあります。
ピーリー・レイースの地図とは?
ピーリー・レイースが手掛けた地図は、
2つのものが現存しています。
一般に「ピーリー・レイースの地図」
と呼ばれるのは、1513年に作成されて、
1928年に発見されたものです。
1928年にイスタンブールの
トプカプ宮殿博物館収蔵の
写本軍の中から発見されたものです。
当時では最高・最新の地理知識を結集して
作成された地図は残念ながら、
保存状態があまり良くありませんでした。
インド洋が記されていたと思われる
右半分が紛失し、大西洋を中心に描かれた
左半分の断片だけとなってしまっていました。
現存する断片には、イベリア半島と
アフリカ大陸北西部が書かれています。
さらに、南北アメリカ大陸の塔海岸、
南アメリカから続く陸地(南極大陸の北岸)が
しっかりと記されています。
南極大陸の北岸には、周辺を進む船と
動物までも書かれている事には驚きます。
アメリカ大陸を「発見」した
クリストファー・コロンブスや
「アメリカ」の名の基になった
アメリゴ・ヴェスプッチの原図が
失われてしまった今では、
アメリカ大陸を描いた史上最古の地図、
最古の世界地図と称されるものが
ピーリー・レイースの地図なのです。
ピーリー・レイースはこれを仕上げるために、
計33枚の地図や紀元前4世紀の
アレクサンドロス大王の時代から伝わる
貴重な伝承を情報源に下されています。
また彼が参考にした地図のうち8枚は
イスラムの地理学者のもの、4枚は
ポルトガルの航海者のものでした。
さらに、1枚はコロンブスの
新大陸地図だったと伝えられています。
ですが、ピーリー・レイースの地図には、
優れた情報源にも引けを取らず、
遙かに優れた地図に仕上がっています。
「未来人の知識を借りたとしか思えない」
ほど正確すぎるものだったのです。
ピーリー・レイースの地図の不可解な点
まずピーリー・レイースが生きた時代は、
アメリカ発見から約20年しか経っておらず、
海岸線の調査などされていませんでした。
ですが地図の海岸線は、後に権威ある
学者も認めたように、実際のものと
ぴたりと一致しています。
しかも、地図の歪み方も再現した
当時では考えられない地図なのです。
地球という「球」に散らばる
大陸を平面に記すと、どうしても
多少の歪みが出てしまうのです。
正距方位図法で書かれた
ピーリー・レイースの地図くらい
正確なものを作るには、
18世紀の技術でなければ不可能でした。
さらに、驚くべきは、南極大陸の発見です。
地図が完成した当時は、
当時南極は発見されていません。
氷に閉ざされた南極は当時の技術では
測量などできないのです。
ピーリー・レイースの最後
これほど精巧な地図を完成させられる
有能な人物は頼もしい存在ですが、
万が一裏切られたらと考えると・・・。
ピーリー・レイースは1554年に、
セリム1世の後継者であるスレイマン1世に
処刑されてしまいました。
優れた頭脳と技術を持ち合わせ、
また軍人としても優れた
ピーリー・レイースの罪状は「戦線放棄」でした。
実際は、スレイマン1世は、
ピーリー・レイースの地図を恐れて
彼の命を奪ったのかもしれませんね。